カテゴリー別アーカイブ: 家具のこだわり

ADコア新作説明セミナー

こんにちは。

先日当社で開かれた、ADコアの新作説明会の様子をご紹介いたします。

ADコアは、
 「一度商品化した製品は廃番にしない」
 「大量生産をしない」
 「国内で製造する」というコンセプトで
1985年から国内でクオリティの高い家具を作り続けています。

その商品は、
デザイン性も豊かで、かつ、丈夫で安心な家具として
ホテルや店舗などでも目にすることができます。

今回は、新しくなったADコアのカタログや、新作の説明を
ADコアの家具デザイナーの瀬戸昇氏にしていただきました。

ADコアは、カタログにもユーザーの意見を意欲的に取り入れ
常に使う人が”使いやすいか”を考えてくれています。

それは、家具をデザインするのと同じように、
使う人の立場で開発をすすめているブランドだからこそですね。

家具のスタイル、使った時のイメージが伝わりやすいカタログと、
プライスリストは別冊ですが、どちらも商品がリンクできるよう
お互いに掲載ページが表記されていますよ。


では、まずこの新作チェアから見ていきましょう。

「PACE」パーチェ
3次元合板の柔らかな背のカーブは、無垢材のフレームに滑らかに連なります。
イタリアンモダンテイストでありながら、シャープすぎず優しい雰囲気。

無垢材の家具にありがちな重厚さではなく
木の持つ柔らかな素材感を、引き出しています。

座面はゆったりと座れる、ゆとりのあるサイズ。
布張りの背のタイプもあります。

布部分は、カバーリングシステムを採用。汚れが気になるダイニングチェアでも
気にせずお好きなファブリックの素材感をお楽しみいただけます。

実物を見ると、感動するくらいの3次元合板と脚への滑らかさ。
そして、持ち上げた時に、
デザインから想像するのとは違う「えっ?」と思うような軽さ。

技術を尽くして実現した、奇跡のフォルムですね。


こちらは、ネオクラシコから
「007M-MODEL」
人気の007モデルの
ダイニングチェアと、ラウンジチェアのちょうど間にあたる
コンフォートチェアタイプです。

布バネ・ダイメトロールを使用した座面はW520㎜と、
ゆったりとしたサイズと柔らかな座り心地です。

この007モデルのシンボルであるオーバル型の背の部分は
この007M MODELでは、背を包み込むように曲線を描いており
座り心地を向上させました。

このタイプのチェアは、イスをひくときどうしても背の部分の布が
汚れたり、擦り切れやすいのですが、

ADコアの007モデルは、木部フレーム上部に手で引きやすいように
手かけの堀込みがあります。


「030L-MODEL」
様々な用途に対応するフレキシブルなパーソナルチェア。

ポケットコイルを使用した座で、ゆとりある座り心地をキープ。
さらに、従来の030モデルの1人掛けより210㎜コンパクトになりました。

メープル材の脚部(13色)とファブリックの組み合わせで
様々なコーディネートが可能です。

また、ガスダンパー上下機能付きアルミ脚、
本体にキャスターが付いた2タイプのモデルもあり、
オフィスから、リビング、
エグゼクティブチェアなどにも幅広くお使いいただけます。

飛騨の匠の物語4


大正9年に飛騨に伝わった曲げ木椅子。

まだちゃぶ台の生活で、椅子など見たことも無かった時代に
洋家具を作るという決断は、革新的な出来事だった。

永年の経験と木の知識に支えられながら
「飛騨の匠」の技を受け継いだ職人たちの存在と
その挑戦を実現できるという自信が、
飛騨の洋家具作りを発展させていった。

昭和40年以降、日本人のライフスタイルは様式へと移行。
飛騨の家具メーカーも国内向けの商品開発に挑むと共に
飛騨デザインの確立を目指してきた。

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そうして作られたのが、飛騨デザイン憲章です。


『飛騨の家具』『飛騨・高山の家具」ブランドシンボルマーク

飛騨の家具には、曲げ木やホゾ木といった
複雑で難易度の高い技術で作られています。

こうした木工の深い技術を生かしつつ、古い伝統の形を押し付けるのではなく
姿や表情を時代に合わせながら飛騨デザインを育てています。

そして、日本国内のみならず、海外の国際家具見本市でも
飛騨の家具は高い技術を認められ、高い評価を得ています。
日本デザイン 世界へ発信

札幌ファニシングTERRAにも、この匠の技が光る
飛騨の家具を展示しています。

現在「飛騨の家具展」開催中。
ぜひこの機会に、匠の技にふれてみてください。

参考文献:新・飛騨の匠ものがたり
参考サイト:飛騨の家具・飛騨デザインの総合サイト

飛騨の匠の物語3

洋家具作りが始まったのは、大正9年である。

大正時代の飛騨は、鉄道もなく陸の孤島と呼ばれるにふさわしい
交通不便な山の中の町だった。

四方にそびえ立つ山々には、ブナの原生林がうっそうと繁り
昼も暗い密林地帯であった。

明治初期頃より、指物や箪笥などの和家具作りはされていたものの

当時、ブナ材といえば雑炭か下駄の歯程度の用途しかなく
無用の長物として見捨てられていた。

●飛騨の家具作りの発祥 ブナ材の曲げ木活用●

木材を蒸して型に入れ曲げる方法を世界で最初に考え出したのは
ドイツのミヒャエル・トーネットである。

1856年にオーストリアで世界で始めて曲げ木工場の建設に着手。
1859年には曲げ木椅子の多量生産を開始。
世界各国に販売され、今でも曲げ木といえばトーネット、
といわれるほどの椅子も生まれた。

2億本売れた椅子

その椅子の秘密は、ブナの木をUの字に曲げて椅子の部材を作る。
軽くて、輸送や製造コストも安くつく。
木理が通っているので、細くても丈夫。
たとえ壊れてもパーツの交換で修理が済む、というシンプルな基本構造にあった。

明治40年頃には、東京曲木や大坂の泉製作所が曲木家具の製作を始めた。
わが国における曲げ木家具製作の始まりである。

役に立たないとされていたブナの木が適材としての評価を得ると
ブナ材を求めて、明治44年には、秋田木工に、
9年後の大正9年には飛騨に伝わった、というわけである。

                         つづく

参考文献:新・飛騨の匠ものがたり

札幌ファニシングTERRA
「飛騨の家具展」開催中

飛騨の匠の物語2

かにかくに 物は思はず 飛騨人の 打つ墨縄の ただ一道に

この万葉の歌は、飛騨の匠たちが打つ墨縄の直線は
人間の技とは思えないほど、高度で正確な技術であることを
あらわしている歌である。

あれこれと浮気はしない。飛騨人の打つ墨縄が真っ直ぐなように
ただ一筋の愛を貫き通す、そんな恋の歌・・・なのですが。

都造営から近世の匠建築まで、
国の重要文化財に指定されているものは数多く
現在でも、その技にふれることができる。

国重要文化財 日下部家梁組

豪壮でどっしりとした表構え。
軒裏にセガイ(出し梁)を施し軒はかなり深い。
男性的な力強さを感じさせられる。

一方、日下部家の隣家である吉島家
セガイは無いが、太い軒下駄や垂木が
優雅で洗練された美しさを魅せる。

内部を見ると吹き抜け空間が美しい。
根曲がりが大きいアカマツ材を使いこなし
束と梁が織りなす縦と横の木材構成美。

一本の木材でも、繊維方向が平行でなかったり、収縮率が違う。
また、樹種、伐採された場所によっても、特質が違ってくる。

そんな材の欠点と利点を組み合わせる工夫が随所になされる。
木を知り尽くした、匠だからできる高度な技術だ。

飛騨の街を歩くと、飛騨の匠の技に魅せられる。

よく目にする、格子デザインも、その特徴の一つ。

ここで、一つ、不思議な格子をご紹介しよう。

お気づきだろうか。
木組みが縦も横も交互にかみあわされ
まるで、竹かごのよう。

竹や針金など、たわむ材料では可能なこの組み方は、木では不可能である。

それを可能にするのが、飛騨の匠の技というわけ。

安土桃山時代に建てられた寺の余材で、小さな地蔵堂を建てた棟梁。
この謎の千鳥格子は、このお堂の扉として考えられた。
檜の一寸角を使った升目で互い違いに組んだ謎の格子。

人々はこの格子組みに首をかしげたまま約250年が経過した。

明治初期に、高山の名工岡田甚兵衛がその組み方を解き明かそうと調べたが
外見からでは全くわからなかった。

やむなく、扉の片隅を少し壊して、その秘法を盗んだという。

※写真は、謎を解いた名工、岡田甚兵衛がその格子を再現した
高山市の江名子川に架かる助六橋の近くにある現存の稲荷堂。

あえて、ここではその秘密はあかしません^^
安土桃山時代の、ある飛騨の匠の技と頭脳に挑戦してみませんか?
                            つづく

参考文献:新・飛騨の匠ものがたり

札幌ファニシング株式会社TERRA
「飛騨の家具展」開催中

飛騨の匠の物語1


日本の5大家具産地の一つに数えられる飛騨。

飛騨の地場産業である家具をはじめとする木工業は
技と資源を背景に発展してきた。

その物語をさかのぼって行くと、そこには都の造営に活躍した
「匠」と呼ばれる多くの先人達の姿が見えてくる。

それは「飛騨の匠」と呼ばれた技能集団である。

これから、飛騨の匠とその「モノづくり」
そして飛騨が有名な家具産地と呼ばれるまでの
物語を紹介いたしましょう。

匠の徴発が制度化されたのは、大宝律令(大宝元年)だが
飛騨と都の交流は、それ以前から活発だったという説が強い。

律令以前からの、飛騨の高い建築技術が中央政府の目にとまり
「飛騨の匠」の技術力を都の造営に活用するために、制度化。

制度が自然消滅する平安末期まで、およそ500年間にわたって
飛騨から都へ出役した匠は、
4~5万人にも達したのではないだろうかといわれている。

飛騨から職人を都に出す養老令とは、租庸調の庸調の変わりに
里ごとに匠丁を10人差し出すというものだったが、
のちに、都へ出た匠丁が、故国に戻らないという「逃亡」がおこる。

飛騨工は、厳しい労役の元で逃亡を余儀なくされたと見られていたが
実際は、飛騨匠丁の「腕」が広く求められ
故国へ帰ることをためらうほど、魅力的な待遇が約束されるような
事態が多くあったと見られる。

任期を終えた匠丁たちは、故国へ帰らず技能を生かす生活を
他郷か、都でおくるものも少なくなかった。

つまり、中央政府に集められていた飛騨の木工技術者たちは
政府期間を離れ、他の有力者たちの家に
取り込まれていったという事を意味している。

                       つづく

参考文献:新・飛騨の匠ものがたり

札幌ファニシングTERRA 「飛騨の家具展」開催中