飛騨の地場産業である家具をはじめとする木工業は
技と資源を背景に発展してきた。
その物語をさかのぼって行くと、そこには都の造営に活躍した
「匠」と呼ばれる多くの先人達の姿が見えてくる。
それは「飛騨の匠」と呼ばれた技能集団である。
これから、飛騨の匠とその「モノづくり」
そして飛騨が有名な家具産地と呼ばれるまでの
物語を紹介いたしましょう。
匠の徴発が制度化されたのは、大宝律令(大宝元年)だが
飛騨と都の交流は、それ以前から活発だったという説が強い。
律令以前からの、飛騨の高い建築技術が中央政府の目にとまり
「飛騨の匠」の技術力を都の造営に活用するために、制度化。
制度が自然消滅する平安末期まで、およそ500年間にわたって
飛騨から都へ出役した匠は、
4~5万人にも達したのではないだろうかといわれている。
飛騨から職人を都に出す養老令とは、租庸調の庸調の変わりに
里ごとに匠丁を10人差し出すというものだったが、
のちに、都へ出た匠丁が、故国に戻らないという「逃亡」がおこる。
飛騨工は、厳しい労役の元で逃亡を余儀なくされたと見られていたが
実際は、飛騨匠丁の「腕」が広く求められ
故国へ帰ることをためらうほど、魅力的な待遇が約束されるような
事態が多くあったと見られる。
任期を終えた匠丁たちは、故国へ帰らず技能を生かす生活を
他郷か、都でおくるものも少なくなかった。
つまり、中央政府に集められていた飛騨の木工技術者たちは
政府期間を離れ、他の有力者たちの家に
取り込まれていったという事を意味している。
つづく
参考文献:新・飛騨の匠ものがたり
札幌ファニシングTERRA 「飛騨の家具展」開催中